「俺には悪か癖のあるとさ。とにかく“1番”じゃないと気が済まんと。
誰も扱っとらん品種にチャレンジするとは『日本一』になりやすかから。もちろん1年や2年で成功するようなもんじゃないし、苦労も失敗も色々したけどさ、それでも毎日楽しかもんね。
失敗を笑い話にできるようになって、俺の人生もまんざら悪いことだけではなかったと思うね」
(富田農園 富田秀俊)
佐賀県はハウスみかんの生産日本一を誇る産地。なかでも唐津市は昭和48年からいち早くハウスみかんの栽培を始めた地域だ。そんな土地で、フランス原産の“幻の黒いちじく”〈ビオレソリエス〉を国内で初めて本格的に栽培成功させ、その味と品質で一流の料理人たちを魅了しているのが富田農園園主である富田秀俊である。
ビオレソリエスの他にも、玄界灘に浮かぶ馬渡島(まだらじま)にしか自生していなかった絶滅寸前の柑橘〈ゲンコウ〉や、インド原産で主に花材として求められる〈仏手柑(ぶっしゅかん)〉といった、希少果実だけを栽培する。
どの果実も品質として日本一と誇れるものを目指し研究と努力を重ねた結果、富田農園で栽培された作物の多くは、大手食品メーカーや有名洋菓子店、ハイクラスの日本料理店など、本物思考の強い顧客からの引き合いが絶えない。
自然と向き合う農業は、その経験や勘も収穫に大きく結びつく。“希少種生産農家”としてトップを走り続ける富田秀俊が歩んできた農業者の闘いの歴史とその思いに迫る。

富田秀俊/とみた・ひでとし。1949年唐津市浜玉町生まれ。富田農園園主。国内で初めて黒いちじく〈ビオレソリエス〉の栽培に成功。そのほかにも国内での事例が少ない希少種の栽培で注目される生産者。「農家だから販売は専門外」と商品は通販でのみ出荷されるが、多くの料理人や菓子メーカーなど多岐にわたる顧客がその商品を待ち侘びている。孫たちとの触れ合いが楽しみな家族思いの一面も持ちつつ、常に地域の農業の未来を見つめ、作物を思い、次の一手を考える“魂の農業家”である。
横並びのみかん栽培に限界を感じ、いちじくへの転作に舵を切る

〈▲ 濃厚な甘さ、柔らかい果肉、ねっとりとした食感が特徴のビオレソリエス。収穫時期は「実を触った時の感覚」で見分け、その感覚のブレをなくすため、息子の将晃さんがひとりで収穫を行う。完熟出荷へのこだわりが富田農園というブランドを保つ秘訣のひとつ〉
富田農園はもともと、唐津の基幹産業であったみかんの専業農家だった。昭和30年代、国のパイロット事業としてみかん園の造成が進み、人々は山だけでなく水田さえもみかん畑へと変えていき、この地域のみかん農家は誰もが羨む裕福な農家となっていった。富田農園も例外ではなく、玄海町や糸島などにも農場を広げ、みかん栽培に懸けていく。
しかし生産量が増えれば、その価格は下がるのが必然。昭和50年代のみかんの大暴落を契機に、国はみかん畑の減反政策を打ち出していく。農業の専門学校で学び、みかんに夢を託していた当時の富田青年が「みんなが疑いもなく同じ方向を向いていることの危うさ」を肌で感じた瞬間だった。
「これ以上みかんを続けるのは得策ではない」と判断し、農家として生きていくためになにか新しい作物はないかと情報収集に駆け回り、愛知県にいちじく栽培で成果を上げている農家があるという話を聞きつけた。
いち早く研修に出向き、栽培方法を学び、すぐさま地元で実践に移った。みかん栽培からほぼ足を洗い、(地域では)誰もやっていないいちじく栽培に取り組む彼の動きは小さな農村に新風を吹き込み、同じ道を目指す農家たちが次々と現れるきっかけとなった。
しかし彼も仲間も、なかなかうまくいかない。
少しでも高値で売ろうと地元の市場ではなく、福岡や関東の市場に出荷してみるものの、いちじく生産地として特筆したものがあるわけでも、特殊なブランド品種をつくっているわけでもなく、思うように売り先が見つからず、輸送費だけが膨らんでいくという悪循環に陥った。
「それでも、もうやるしかなかとですよ。一般的な品種じゃ勝負できんから、海外の品種まで取り寄せて試験栽培を始めました」
幻の黒いちじくに、一か八かの勝負をかける
いちじく生産者としてもがき苦しむ中、「うちに、非常に珍しい黒いちじくの樹が1本ある」という人から声がかかる。
これが彼と〈ビオレソリエス〉との出会いとなる。
フランス原産のビオレソリエスは、濃厚な味わいと希少性から高い人気を誇る高級品種。「幻の黒いちじく」と呼ばれるほどで、日本国内での生産者は極わずか。そもそも日本の風土では栽培が極めて難しいため、日本の果実農家が手を出さない“禁断の果実”でもあった。
これで本当に勝負できるのか…。でもほかに打つ手もない。
「難しいことは分かっていたけど、いちじくについてはある程度勉強しとったけん、『俺の手にかかったら絶対実がなる』と思いよったとですよ。完全に甘い見立てでしたけど」
ビオレソリエスには、それまでのいちじく栽培のノウハウが通用しなかった。何年経ってもまったく実がつかない。地域でビオレソリエスの栽培を始めた他の農家もすべてが同じ状況で、最終的にはみんな諦めてしまった。
「それまので果実農家としての経験、知識を注ぎ込んで、あらゆることを試してみました。でも8年間、まったく実がならんとです。うちの嫁さんにも『このままでは農家としてやっていけない…』と言われました」
あと1年だけ――。
そう決めたものの既に手は尽くしてきており、打開策は見つからない。そんな時にある仮説を閃いた。
《そうだ、枯れる寸前まで追い込んだら子孫を残そうと樹が力を出すんじゃないか》
それは農家としての直感だった。どうせあと1年でやめるなら枯れてしまってもいい。毎日毎晩ノイローゼのように悩みながら、奇跡を願い検証を重ねていった。
「答えが見えているわけでもない。自分の中に確証があるわけでもない。あったのは私の勘だけでした。でも、その勘を頼りに、誰にも相談せず、来る日も来る日も黙々と枯れる寸前まで樹を追い込んだとです。そしたらその秋、全部の樹に実がなりましたよ」
知人から樹を譲り受けて9年、彼はついにビオレソリエスの栽培方法を“確立”した。平均糖度18度(最高20度以上)と非常に高品質な彼のビオレソリエスは、やがて一流のシェフやパティシエなどに支持されるようになっていく。
驚くべきは栽培方法を“確立”した後の、彼のアクションだ。
彼は死に物狂いで手に入れたそのノウハウを、テレビ番組で披露したり、希望者には直接技術指導するなど情報をシェアしていったのである。
「農業は本当に厳しい世界です。それをわかっているからこそ、少しでも多くの“同志”が利益を上げられるように手助けをしたかった。でも、その思いはなかなか伝わらんとです。テレビ番組に出演した後に、180組の農家から『自分も黒いちじくをつくりたい!』と問い合わせが来たけど、それに対しどれくらい覚悟がいることなのか伝えたら残ったのは6人だけ。その6人に指導したけど、結局最後まで続いた人はひとりもおらんかった。ちょっとやって失敗するとすぐに諦めてしまう。みんな熱意が足りない。農業はそんなに甘くないということです」
だれもつくっていない作物で1番になる。数々の希少種の栽培に着手
ビオレソリエスが軌道に乗ったのち、彼はさらに希少種の栽培に挑戦し、他の追従を許さない農家として進化していく。希少種の栽培は成功すれば高付加価値につながる一方、その過程では多くの試行錯誤と忍耐が必要となる。それでも誰もが成し遂げていないことをやり抜き、農家として“1番”になることを想像すると、その苦労さえも楽しみとなっていった。
「俺は青年時代に高跳びで佐賀県のチャンピオンになって、地元の相撲大会でも星を稼ぎよった。その頃からとにかく1番になりたい、2番3番だったらやらないほうがまし、という気持ちがあるとです。といっても、唐津という小さなエリアの中で1番2番になっても仕方がない。日本一じゃないとね。農家で天下を獲るのは難しいけど、希少種を作ればすぐ“日本一”になれる。だからやめられんのよね」
現在育てている数多の希少種の中でも、ビオレソリエスと並び、特別な思い入れがあるのが〈ゲンコウ〉だ。

〈▲ 爽やかな酸味を料理のアクセントに使う、糖度の上がった完熟の実をコンフィチュールに仕立てるなど、ゲンコウを使う料理人たちもその特性に想像力を掻き立てられるようだ〉
唐津市の沖にある馬渡島にしかないというこの柑橘は、隠れキリシタンが島に持ち込んだと伝わっており、教会の近くにだけ生息していた。その原木も(当時)わずか4本しか残っていないと聞き、島の文化を守るため富田氏はゲンコウの栽培を始めることにした。
「かつては馬渡島に多く自生していたのに、それがほぼなくなりかけていました。この地域にしかない品種を守り続けることは自分の役割だと思ったとです」
希少な地域固有種を守るという使命感に加え、誰も真似できない独自の農業に挑戦するとう欲望に従い、努力に努力を重ねてゲンコウ栽培に成功。ほとんど知られていない果実を、市場で価値のある農産物として確立するため、唐津の名産にすべく積極的に普及活動にも乗り出した。そんななか、馬渡島の住民からもゲンコウ栽培に挑戦したいという人が現れ、富田農園で育てた18本のゲンコウを島に戻すなど、絶滅しかけていた“馬渡島のゲンコウ”を現代に蘇らせることにも成功した。
「ゲンコウはカボスのように酸をとる蜜柑」と富田氏が言うように、果汁を絞って料理の味を引き立てるときにゲンコウはそのポテンシャルを発揮する。牡蠣や焼き魚、肉料理、焼酎との相性が良いとされている。
「でも、3月まで収穫せずに樹に実をならしていたら、糖度が12度くらいまで上がるんです。これほどの糖度を持つみかんは世界中探してもほかにはないですよ」
「こんな貴重なみかんを見つけ出したんだから、何があっても絶対作り続けてほしい」と言うのは、京都でミシュラン三つ星を獲得する日本料理店〈未在(みざい)〉の石原仁司氏。一流の料理人に使い続けたいと言わしめるほどのゲンコウだが、まだまだ一般的には知られていない。
「生産者として、ゲンコウの価値は間違いないものだと確信しております。どなたか、その価値を広めてもらいたいですね」
ベルガモット、レモネードレモン、仏手柑、シナモン 希少なものばかりをつくる日々
希少果実農家として、彼が手掛けている柑橘類のなかで〈ベルガモット〉はメジャーなものといえる。紅茶のアールグレイの香料としても知られているが、実は国内で生産している農家はごくわずかだ。

〈▲ 富田氏が育てるベルガモットは香りが高いのが特徴。果皮から精油を取るが、この畑のベルガモットは葉を揉むだけでも爽やかな香りが広がる〉
3mほどに育ったベルガモットの樹には、ずっしりとした実がいくつも実っている。栽培を始めた当初は徒長ばかりして実をつけない“暴れ馬”だったが、ブドウのような棚作りに変えることで問題を解決した。
爽やかな味わいが特徴の〈レモネードレモン〉は、そのまま果実をかじると、柔らかな酸味の中から遅れて甘みが口内を包む。

〈▲ レモンほどの酸っぱさはなくその奥には爽やかな甘味を感じるレモネードレモン。フレッシュのままパクパク食べられる〉
とりわけ珍しい〈仏手柑(ぶっしゅかん)〉は、インド原産の柑橘。シーズンの11〜12月になると黄金色に色づき、主に生け花の花材として使われる。正月飾りに欠かせない花材として、毎年京都の東本願寺から「超特大を」というオーダーが入るという。

〈▲ 「国内で流通するものの約1/3が富田農園のもの」というほど生産量が少ない仏手柑〉
この木の枝のようなものは、スイーツや肉料理などのスパイスとして使われる〈シナモン〉の根。富田農園では水分量が少なく香りの濃い秋から春の時期にしか出荷しないと決めている。

〈▲ 6mの大木から掘り出したシナモンの根。一般的に流通する幹の薄皮と違いその、根の表皮の味と香りの高さは格別だ〉
通常、原料となっているのはシナモンの木の樹皮。それを剥いで乾燥させたものが一般的だが、富田農園では「根」を売り物としている。そもそも、国産シナモンを栽培する人が少ない中で、枝や樹皮ではなく根に“新しい価値”を創造しているのが富田氏の富田氏たる所以だ。
「新しい? いやいや、昔はそうだったんよ。子どもの頃からニッキの根をおやつ代わりにかじりよったけん、シナモンといえば俺にとっては根よ。根は生命体そのものやけん、幹の薄皮よりも味も香りも力強いとです」
“農闘魂”という言葉に込められた農業者としての生き方
富田農園の畑のそばには“農闘魂”と刻まれた石碑が建つ。
「農業に対して戦う魂を持つチャレンジャーでありたい」というこの思いが、みかん栽培から転身し、希少種栽培で1番を目指してきた農業者人生の心の支えだった。彼は毎日その言葉が刻まれた石に手を置いて仕事に向かう。ゴツゴツとして厚みのある日に焼けた手は、唐津というこの地で60年近く自らが信じる農業に懸けてきた証であり、勲章だ。
「農家は1年や2年で成功するようなもんじゃない。チャレンジしても成功するのは1/3という気持ちで取り組まんとだめ。失敗もあっていいけど、失敗は自分の責任さ。見る目がなかった、努力が足りんかった、作物と話し切らんかった結果さ。そして失敗を笑い話にできるようになるのが農業の楽しさ。俺は年中楽しかよ」
一つひとつの作物に対して「これを世の中に出したい」という気持ちで愛情を持って向かい合うこと。そして自分自身がそれに懸けることが、今の富田農園の姿をつくってきた。跡を継ぐ息子の将晃さんに主要な仕事は任せているものの、彼にはまだやり残したことがあるという。
それは唐津という土地で“生きてきた証”を残したいということだ。
「いろんなことに手をかけたけど、ひとつだけまだ足らんことがあります。地域に貢献しとらんとです。自分だけが儲けたいわけではない。九州の片田舎の唐津という地名を知ってもらうことでみんなが潤うだろうと考えるとです。うちの作物を佐賀で、唐津で活用する人が出てきて、“オール佐賀”の商品ができたらそりゃ嬉しいね。農家でなくても佐賀で何かやりたいという熱意のある人が現れたらおもしろいやろうね」
取材・文/岩井紀子
撮影/水田秀樹
【富田農園】
住所:佐賀県唐津市浜玉町平原1471-1
富田 秀俊
富田農園園主1949年唐津市浜玉町生まれ。国内で初めて黒いちじく〈ビオレソリエス〉の栽培に成功。そのほかにも国内での事例が少ない希少種の栽培で注目される生産者。「農家だから販売は専門外」と商品は通販でのみ出荷されるが、多くの料理人や菓子メーカーなど多岐にわたる顧客がその商品を待ち侘びている。孫たちとの触れ合いが楽しみな家族思いの一面も持ちつつ、常に地域の農業の未来を見つめ、作物を思い、次の一手を考える“魂の農業家”である。









