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2025.05.02

嬉野で“古式釜炒り茶”を継ぐ茶師 松尾俊一が追い求める茶文化の未来

「こんな山の中で茶づくりをやっている僕のテーマは、

100年近く前からこの辺りで育てられてきた在来種の〈植生〉を茶の中に映し出していくこと。

その一杯が、土地の記憶や自然の営み、人と人とのつながりを伝える――そんな茶をつくりたい」

(嬉野 茶師 松尾俊一)

 

その場所を訪れたのは、前日までの暑さが嘘のようにひんやりとした秋のはじめ。小さな谷に沿って広がる茶畑の中に建つ、質素ながらセンスを感じるしつらえの工房には、ふたつの炒り釜と囲炉裏のある小上がり。釜のひとつは改修中らしく半分ほど崩されている。

ここ、嬉野町不動皿屋谷は嬉野茶の歴史が始まった地。室町時代に中国大陸からこの地に移住した唐人が自家用に茶を栽培していたのが始まりで、1504年には明から渡来した陶工「紅令民(こう れいみん)」が南京釜を持ち込み、釜炒り茶の製法を伝授したと伝えられる。

嬉野茶のルーツである山の中、たったひとりで茶づくりに挑む男、それが茶師・松尾俊一だ。

できるだけ茶畑の中で過ごしたいと、茶時期は一人、小さな工房で暮らしながら昼夜を問わず茶畑に出る。あまりの作業量に膝の骨が壊死してもなお没頭する。まさに人生を賭けて茶に情熱を注ぐ姿勢は、ともすれば狂気にも映る。

開け放たれた窓の外に見える静かな緑の風景とかすかな雨音。囲炉裏のそばでこの春つくったというお茶を無造作に入れながら、松尾氏は自らが求める茶づくりへの思いを話し始めた。

松尾俊一/まつお・しゅんいち。茶師。株式会社あはひの代表取締役。1978年、嬉野市で続く茶農家を営む家に生まれる。学生時代に障害者教育に興味を持ち、脳科学を学び言語聴覚士として務める中で茶の持つポテンシャルを体感し2007年に就農。持ち前のデータ分析力を活かし、膨大な茶の抽出サンプルデータを集積し、初出品した全国茶品評会で1等1席を受賞。均一化された国内の基準ではなく独自の価値基準を追い求めることに意義を見出し、嬉野茶の原点である古式釜炒り茶を継承。「自然」と「人」とがつながる独自の茶を目指す茶師として、日夜茶と向きあう。

言語聴覚士時代に茶のポテンシャルに気付き、茶農家に転身

嬉野の茶農家に生まれたものの、父親から茶業を続ける難しさを聞かされ育った松尾氏は、「茶農家になるとは全く思っていなかった」という。

そんな彼が当初、志したのは言語聴覚士だった。

「僕のいとこは、生まれつきハンディキャップを抱えていて、小さい頃から言葉をうまく発することができなかったんです。親戚中でも僕だけはなぜか彼とコミュニケーションが取れていたけど、ほかの人とはうまくできない。そのいとことの関係の中から、言語やコミュニケーションの支援を専門に学びたいと思うようになっていきました」

専門学校で学び、当時制定されたばかりの言語聴覚士の資格を取得。病院や介護施設で働き、リハビリや指導に取り組む日々を送っていたときのこと。思いがけないお茶との接点が、彼を茶の道へと導いていく。

「発声できない障害のある患者さんへの訓練がうまくいかず、『もう嫌だね、今日はやめようか』って言って茶を淹れて飲ませたら、その患者さんが『はぁ』って声を出せたんです。ふと飲んだ茶をきっかけに声を出せた瞬間を目にした時、僕の中で茶が持つ“得体の知れない力”に興味が湧いたんです」

〈▲ 銀針系の白茶。揉捻(じゅうねん)という茶葉を揉む作業をしないため渋みがなく、摘みたての葉の状態が茶に映る〉

リラックス効果だけではなく、お茶のカテキンが持つ殺菌効果について関心を寄せるようになった松尾氏は、言語聴覚士を続けながら茶畑に出入りし、お茶づくりを学び始めることになる。

「僕は仕事柄というか性格上、茶の作り手が、概ね経験と感覚だけでやり切ろうしていることが気になってしまって。畑が違えば土壌の質も違うし日照条件も違う。さらに品種も色々あるのに『茶とはこうつくるものだ』と。そこに違和感を持ち始め、蒸し度とか、外乱(環境要因によるデータの乱れ)の抽出、栽培のデータなど、あらゆるデータを集めるようにしました」

言語聴覚士と茶業の兼業生活をはじめて約2年。「ある程度の傾向と対策が固まった」と、言語聴覚士を辞め、本格的に就農することとなる。

初めての品評会入賞の裏にあった独自の戦略

〈▲ 「ここの茶の木は約1,400本。100年程の在来種の茶樹です」。ひとりで手摘みするにはこの本数で精一杯だが、機械摘みを行う一般的な茶農家の畑はこの数十倍の広さがあるという〉

1年で8,000種を超えるお茶を試飲し、さまざまな仮説を立てながら茶葉の分析と抽出条件の複雑な関係性のデータ化を進めていくと、いわゆる「おいしい」とされ市場で高値が付く茶葉が育つ土壌や水、堆肥などの電気伝導度、窒素量、葉の色など、さまざまな条件が見えてきた。

「その通りに作れば評価される茶はできる。だから初めて参加した品評会で1等、最高単価をつけることができました。『あいつは天才だ』なんて持て囃されたけど、違うんです。データ分析と解析で必然的においしくなる茶をつくり、さらには品評会の開催地の水質調査をし、pH(ペーハー)や水質条件までを調べ上げて対策してるんです。だから、結果がついたと思っています」

しかし、数年間にわたり出品を続ける中で、松尾氏はある疑問を抱くようになる。

「例年、品評会で入賞はしていますが、普段作っている茶とは違うんです。品評会に出品するような茶を市場に出しても、評価がついてきません。たしかに人の評価は大切です。だけれども、自分が本当に作りたい茶とは一体どういったものだろう、と思うようになったんです」

ここから既存の価値観や画一的な評価基準から離れ、自分の中の「正解」を追い求める孤独な戦いが始まった。周囲から理解されないことも多く、時に心が折れそうになることもあったが、彼の支えとなったのは台湾で出会った茶農家たちだった。

「彼らはただ売れる茶をつくるんじゃなくて、自分たちが飲みたい茶をつくっている。自分たちの伝統や文化を大切にしていて、そこに誇りを持っている。茶っていうのはこうあるべきという信念を持っていて、しかもそれが畑や茶葉の扱いにすごく反映されていて。僕が目指しているのもこういう茶づくりなんだよな、と刺激を受けました」

孤独だけれども、決して自分ひとりではない。台湾の茶農家との対話を通じて、松尾氏は自分の持つ世界観をさらに突き詰める決意を新たにした。

〈▲ スモーキーさを含んだ「春らしいお茶」をテーマにつくった一杯。水色からの先入観をなくし植生への没入感を高めるため、あえて茶の色がわからない黒杯で出すのも彼の演出だ〉

彼の手元には、独自の評価項目でテイスティングシートをつくった10年かけたデータがある。しかしそれは既存のお茶から得たデータであり、そこに自分が作りたいと思うお茶はひとつもなかった。

「多いときは年間に4万種試飲していましたが、どれだけ試飲しても圧倒的に感動するような茶には出会わない。調べると、品種も肥料も農薬管理も製法もみんな一緒。そりゃ均一的な茶ができるわけだと納得しましたね。産業としては体系的に画一化された栽培方法が最善かもしれないけど、僕に取っては面白くないなって感じでしたね」

長年蓄積してきたビッグデータと本当に作りたいお茶への確信を持って、2014年、嬉野茶の源流である皿屋谷で放棄された茶畑を譲り受け、茶作りを再スタートさせる。

「おいしい」を超える価値基準を生み出すための挑戦

日の出とともに起き茶畑の世話をし、春になれば茶摘み、釜炒りと寝ずの作業に没頭する。彼の日々は、まさに“茶と共に生きる”人生そのものだ。

松尾氏が目指すのは、現代の茶業界が重視する〈趣向性飲料としてのお茶〉や、形式美としての〈茶道〉とは一線を画すもの。皿屋谷に自生する樹齢80〜100年の在来種の〈植生〉を、お茶に体現することに挑んでいる。

彼のいう植生とは、そのお茶がつくられた土地が持つ気質や自然風土、人の営みといった、その土地に根付いた特性すべてを指す。そして、その植生を最大限に活かすためには、〈手摘み〉〈釜炒り〉は欠かせない。

 

「手摘みと機械摘みとでは、まったく茶の味が違います。摘んで、香り成分を含んだ茎の水分を葉のほうに移す萎凋(いちょう)という工程があるんですが、機械摘みだと葉脈が切れがちで、葉っぱに水分が移らず酸化して雑味が出る。香りが引き立つ“生きた茶”にするには、やっぱり手摘みでないと。少なくとも、そうしなければ僕の求めるクオリティのものができません」

薪火でじっくり炒ることで香りが立ち上がり、「土地の植生がダイレクトにお茶に表れる」という釜炒りに関しても、松尾氏はこの場所ならではの価値だと語る。

「釜炒り製法は、この土地で育まれてきた文化そのものです。ここは長崎と佐賀とを繋ぐいくつかのルートのうちの“裏ルート”。こんな山奥の谷間で異国から来た陶工たちが陶器を焼く傍ら、茶を育てて飲んでいたわけです。彼らは、きっと茶を飲みながら故郷を偲んでいたんじゃないかな。そんな歴史、文化的な側面を持つ土地で茶づくりをするのだから、当時から脈々と続いてきた古式釜炒り製法を守らないといけない。

先日まで、嬉野で自前の釜で古式釜炒りをやっていたのは、僕と80代の先輩だけでした。その先輩が先日、お亡くなりになった。僕が諦めたら、おそらくそこで試合終了となる。可能な限り、古式釜炒り茶を作り続けていきたいと思っています

皿屋谷の茶葉を愛しみ、味を損なわないように、最大限に魅力を活かせるようにと出来るだけ手摘みし、かつてここで飲まれていたのと同じ釜炒り茶独自の風味を出す。植生を含んだお茶の味と香り、そしてその一杯がもたらす長い歴史のストーリーを味わったとき、果たして人は何を感じ、何を体験するのか。ただそれが知りたくて、彼は日夜畑に立ち、茶の木と対話する。次のお茶ではどんな感覚を人に与えられるかを想像しながら。

「植物には月の周期に合わせたバイオリズムがあります。茶だってそう。満月の時期は光合成が活発で、葉っぱに水分が拡散します。一方、新月の時期は根っこの水分量が増え、根で旨味成分が生成される。その旨味が中潮あたりで葉に上がり、満月で分解されて繊維質やタンパク質、カテキンになります。こうしたバイオリズムに合わせて茶を摘み、葉の特性を活かした製茶をしていきます。

たとえば満月周期の葉は水っぽいけど旨味が強いから緑茶に、新月の葉は紅茶や白茶など、葉ごとに最適な茶にすることを意識しています」

嬉野茶の歴史が始まったこの土地でお茶を作りはじめて10年。“地域の植生を茶に投影していく”ことをテーマに掲げながら、昔ながらの手摘みで茶畑に入り、伝統的な釜炒り製法を守り続けている。

「誰もが『おいしい』と思える茶をつくることはもちろん大切です。でも、それだけでなく、自然を感じ自然と繋がる茶を届けたい。この土地の自然や文化、人々の営み、そのすべてが詰まっている茶を。目の前に出された一杯の茶からこの山や茶畑の風景が感じられるような、そんな価値ある茶をつくっていたいんです。

そしてそれを飲むことで人と人が繋がるきっかけを生み出したい。僕が目指しているのは、物と人、そして自然の間を結びつける茶づくりです。そんな体験まで包含したプロダクトをつくること、そうした体験ができる環境を整えていくことが、今後の課題だと思っています」

〈▲ 生葉2kgから生産できるお茶はわずか400g。1杯に5グラムの茶葉を使うとすると80杯分にしかならない〉

松尾氏のお茶は一つひとつ手摘みで摘採するため1kgの茶葉を摘むのに1時間。年間で約20日程度しかない摘採の時期には、3時間半〜5時間かかる釜炒り作業を3回転する。その合間にも茶葉を摘み、寝ずに作業を続けても、年間生産量は最大で20kg程度。そのため、松尾氏のお茶を市場で目にする機会は極めて限られている。

著しく“生産性”の低いこの製法をあえて選び、続ける難しさは計り知れない。自分でも、その無謀さは認識している。それでも彼はこのやり方の先にしか「自分が本当に作りたい茶」に近づけないことを知っている。

「国内には多くの茶の産地があるなかで、“嬉野らしさ”とはなんだろうと考えた時に、品評会で審査されるような画一化されたおいしさの基準に沿うのではなく、その土地を感じられるものづくりをすることが正義だと思うし、その価値を高めていくことが、嬉野で僕がやっていくべきことだと確信しています。大切に育てた茶から想像できる植生を、アートのような美的価値として捉え、嗜む。それって文化であって、今、世の中に存在しないものだからこそ生み出さないといけないと思っています

効率を捨て、文化を紡ぎ、人を繋ぎ、未来をつくる――松尾俊一がつくるお茶は、ただの飲み物ではない。その一杯は、土地の記憶を宿し、飲む者の五感を揺さぶる芸術作品である。

「僕のような茶作りを行うのは困難かもしれません。でも、この土地と茶が持つ可能性を、誰かが伝えなければならない。それは自分の仕事だと思ってやってるんです。そう信じて走り続ける先に、きっと新しい茶文化が生まれるはず。そう信じています」

取材・文/岩井紀子

撮影/水田秀樹

【松尾俊一】

https://www.instagram.com/shunichi_matsuo/

【株式会社あはひの】

https://www.instagram.com/awaino_ureshino/

松尾俊一

松尾俊一

株式会社あはひの 代表取締役

茶師。1978年、嬉野市で続く茶農家を営む家に生まれる。学生時代に障害者教育に興味を持ち、脳科学を学び言語聴覚士として務める中で茶の持つポテンシャルを体感し2007年に就農。持ち前のデータ分析力を活かし、膨大な茶の抽出サンプルデータを集積し、初出品した全国茶品評会で1等1席を受賞。均一化された国内の基準ではなく独自の価値基準を追い求めることに意義を見出し、嬉野茶の原点である古式釜炒り茶を継承。「自然」と「人」とがつながる独自の茶を目指す茶師として、日夜茶と向きあう。

STORY

佐賀の豊かな自然と対話しながらこだわりの食材を生み出す生産者たち

400年以上続く伝統と技術を受け継ぎながら器づくりに向き合う作り手たち

料理人

佐賀の「食」と「器」の価値を引き出すことのできる気鋭の県内料理人たち